ラフマニノフ_CDジャケ

心から心へ ラフマニノフ 珠玉の名曲集

 セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)の音楽は、以前より、《ピアノ協奏曲第2番》をはじめとする数々の名曲で聴衆の心を捉えてきた。特に《ピアノ協奏曲第2番》は、ハリウッド映画の『逢引き』、『七年目の浮気』などのメロドラマ的な盛り上がりに一役買ってきた上、五輪のフィギュアスケートでも用いられることが多く、最も知られるところであろう。同曲は、ここ数年での『のだめカンタービレ』などサブカル分野でのヒットや、ソチ五輪での浅田真央選手らの活躍により、その人気がさらに高まり、コンサートで取り上げられる頻度も上がってきている。また、ラフマニノフ自身の演奏によるアルバムや、彼の創作のうち知名度の高い名曲を集めたベスト盤がヒットしていることなどから、ピアニスト兼作曲家であったラフマニノフその人自体に対する注目も大きくなっていることがうかがえる。本アルバムでは、こうした状況を踏まえて、これまでに比較的まだ知名度・人気度共に低い名曲を中心に光を当てることを目指した。
「夢見るような叙情性」、「20世紀というモダニズムの時代に入ってもなお、チャイコフスキーの後継者として保守的なロマン派の作風を貫いた」というイメージが濃いラフマニノフだが、決してそういったイメージの範疇に収まらない面もある。確かに彼は、セリー音楽や無調音楽などの典型的なモダニズムに浸ることはなかったが、例えば《絵画的練習曲「音の絵」》などではスクリャービン(モダニズムの一派である象徴主義に触発された革新家)の複雑な和声に影響された部分が垣間見られるし、《徹夜祷》ではリムスキー=コルサコフやボロディンなどの「ロシア五人組」による荘厳で叙事詩的な響きが聴かれる。このように、《ピアノ協奏曲第2番》から連想されるメロドラマのみに収まらない、ラフマニノフの音楽の多面性を本アルバムでご堪能いただけたら幸いである。20世紀初期において、ロシア文化は「銀の時代」というモダニズムの開花期を経験し、特に音楽界においては後期ロマン派、新古典派、象徴派、また民族主義的志向、普遍主義的志向など、様々なイズムが錯綜していたが、ラフマニノフもそのような時代を一作曲家として生きたのであり、またこうした多様性に富む時代精神と決して無縁ではなかった。以下、彼の創作人生をおおまかに区分しつつ、本アルバムで取り上げるそれぞれの時期の作品群について簡素に触れていきたい。

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【初期:1873-1900年】

モスクワ音楽院在学時より、ラフマニノフは《ピアノ協奏曲第1番》Op.1(1891)やオペラ《アレコ》(1892)、《幻想的小品集》Op.3(1892)など既に多くの傑作を生みだしていた。本アルバムのトラック1、2で取り上げる《幻想的小品集》Op.3は、そのような彼がモスクワ音楽院作曲科を卒業した1892年に書いたもので、全5曲から成る。また、同年12月には、ラフマニノフ自身によって全曲を通しての初演が行われ、翌93年には師アントン・アレンスキーへの献辞つきで出版され、間もなく人気を博した。第1番の〈悲歌〉は、叙情に満ちた性格で、旋律家としてのラフマニノフの魅力が存分に発揮されており、ショパンを思わせる旋律とシューベルトの歌謡性が合わさった美しい哀歌である。第2番の前奏曲〈鐘〉は5曲の中で最も有名であり、モスクワのクレムリン宮殿の鐘の響きから着想を得たとされる。鐘の音を連想させるモティーフが特徴的。

トラック3の《組曲第1番》Op.5は《幻想的絵画》とも呼ばれる1893年の作品。4つの楽章から成り、それぞれの楽章について、ラフマニノフ自身がインスパイアされたミハイル・レールモントフ、ジョージ・ゴードン・バイロン、フョードル・チュッチェフ、アレクセイ・ホミャーコフらによる詩のエピグラフが添えられている。同組曲はチャイコフスキーに献呈された。第1楽章の〈舟歌〉は、レールモントフの詩『ヴェネツィア』によるエピグラフである。夜のヴェネツィアの水路を行くゴンドラが描写され、水音を背景に舟歌が歌い上げられる。トリルの掛け合いなど、繊細且つ華麗でピアニスティックな書法によって書かれており、2台のピアノならではの演奏効果をも生みだしている。

トラック4の《ピアノ三重奏曲第2番》(《悲しみの三重奏曲》)Op.9は、1893年にチャイコフスキーの死を悼んで作曲された。故人を偲んで室内楽曲を書くという、まさにチャイコフスキーが確立した伝統を汲んでいるが、規模、広壮さ、主題の発展性の点でむしろ交響楽的な傾向にある。本アルバムで取り上げる第2楽章は自由な変奏曲(主題とその8つの変奏)の形式による。テンポ、和声などで様々なコントラストが見られる。

トラック5の《楽興の時》Op.16は、世紀末の1896年に書かれた。その後に続く1900年代のラフマニノフのピアノ独奏曲を方向づける特徴が既に見られる点で、重要な位置を占める。19世紀の伝統的な音楽形式を用いつつ、独自性のある音楽語法を操り、また豊かで多様なピアノの技巧をちりばめている。特に表情の豊かさ、動きの活発さで秀でているのは第2番〈アレグレット〉、本アルバムで取り上げる第4番〈プレスト〉、第6番〈マエストーソ〉で、このうち第6番は遥か後に作曲される練習曲集《音の絵》を予感させる。作品全体としては、ゆったりと流れるような歌謡性のある楽章と、ダイナミックで速い性格の楽章とが交互に入れ替わる。

【中期前半:1901-1910年】

トラック6、7の《ピアノ協奏曲第2番》Op.18は、20世紀初頭の1901年に完成された。ラフマニノフの全作品の中で最も有名であり、《交響曲第1番》の初演大失敗から立ち直った、文字通り作曲家としてのラフマニノフの「復活」と位置付けられる。作曲家であり、ラフマニノフの盟友であったニコライ・メトネルは、同曲の主題を「人生の主題」と表現し、以下のように述べた:「霊感に満ちた協奏曲第2番の主題は、彼の人生の主題であるだけでなく、最もロシア的な主題のひとつであるという印象を与える。それはこの主題の魂がロシア的であるからに他ならない。ここにはひとつとして、民族的な装飾もサラファンも、農民服も民謡の節回しも何もないのに、はじめの鐘の音から、鐘が鳴るごとにロシアがすっくと立ち上がるかのように感じるのだ」。このように、メトネルは「すっくと立ち上がる」ロシアと、復活したラフマニノフの創作人生そのものを重ねて見ていた。
また重要なのは、従来では「ラフマニノフが《交響曲第1番》の初演失敗やそれによる酷評を受けてノイローゼに陥り、作曲不能の状態になった」という内容が既存の事実とされてきたのに対し、近年のラフマニノフ研究ではこれを覆す解釈がなされはじめているということである。つまり、精神的打撃を受けたのは確かだが、それが原因で作曲できなくなったというわけではない。ラフマニノフは1897-1898年に私立マーモントフオペラに第2指揮者として務めており、むしろそれが多忙で作曲の時間を奪われていたという説も挙げられている。(現に、彼の書簡にも同歌劇場での仕事に対する愚痴が多く綴られており、むしろこれが原因で鬱になっているのではないかとさえ思わせる。しかし、シャリアピンをはじめとする同歌劇場での様々な歌手たちや画家たちとの交流が、ラフマニノフの音楽の視野を広げ、作曲へのインスピレーションを高めていったことは十分に考えられよう。)いずれにせよ、《交響曲第1番》以後の約3年の「沈黙」は、おそらく作曲家としての危機というよりも充電期間であったと考える方が適切である。この期間の内に、ラフマニノフは今後の自分の作曲家としての方向性をしっかりと見定め、いかなる音楽批評にも耐えうる自信をつけようとしていたのだ。
さらに、同作品にはしばしば、ラフマニノフがニコライ・ダーリ博士の暗示療法により救われたというエピソードがつきものだが、実はダーリの親戚であったエレーナ・ダーリという美しい女性の存在が関わっていたことも最近のラフマニノフ研究では明らかにされている。ラフマニノフ夫人のナターリヤが、亡くなる直前に孫のアレクサンドルにエレーナの存在を明かしたことが事の発端である。ラフマニノフがダーリ博士のもとへ通い始めた折、ちょうどエレーナが博士の家に滞在しており、そこで二人の恋が芽生えた。ラフマニノフがダーリ博士の下へ足繁く通ったのも、このエレーナがいたからこそだという。二人の関係は、ラフマニノフがアメリカに亡命後も、果てはラフマニノフの最期に至るまで続いた。そのため、《ピアノ協奏曲第2番》はダーリ博士に献呈されているが、実のところ当初はエレーナに献呈される予定だったのではないかという憶測まで生じている。

トラック8の《チェロ・ソナタ》Op.19は、1901年に書かれた。タイトルこそ《チェロ・ソナタ》だが、ラフマニノフ自身はチェロもピアノも同等と考えていた為にそのような呼び方を嫌った。それ故に、同作品はしばしば《チェロとピアノのためのソナタ》とも呼ばれる。ほとんどの主題がピアノによって導入され、その後チェロで展開されていく構図になっている。本アルバムで収められている第2楽章は、特にチェロとピアノの興味深いやり取りが見られる。

トラック9の〈リラの花〉は、1902年に書かれた《12の歌曲》Op.21の第5曲に当たる。本アルバムではピアノ独奏用編曲版(1921)が収められている。繊細なメロディーをもつ美しい小品で、ラフマニノフ者自身もこの曲に愛着をもっていたため、後にピアノ独奏版として編曲した。1902年は作曲者が結婚した年でもある。リラ(ライラック)には「愛の芽生え」、「青春の歓び」といった花言葉が古くから与えられている。ラフマニノフの好んだ花でもあった。

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トラック1の《ショパンの主題による変奏曲》Op.22は、1903年に完成された。ラフマニノフが1903年2月にモスクワで初演した後、約70年間ほとんど顧みられず、演奏されることもなかった「幻の」変奏曲である。これには、同作品がラフマニノフにとって失敗作だったという見方が音楽家や音楽学者の間で共有されてきた背景がある。現に、ラフマニノフ自身も同作品の評価があまりに低かったために、そのリベンジとして次作の《10の前奏曲》に着手している。ショパンの《前奏曲》第20曲にあるコラール風の主題を22変奏に渡り展開する長大な作品であるが、ラフマニノフ特有のピアニスティックな名人芸と複雑な旋律により、力強い展開が見られる。本アルバムでは抜粋として第22変奏を取り上げた。

トラック2、3の《10の前奏曲》Op.23は、1903年に完成された。浅田真央選手がバンクーバー五輪で使用した、かの有名な《幻想的小品集》の前奏曲〈鐘〉、また《13の前奏曲》と合わせ、24の長短調全てに対応したものとなっている。複雑なポリフォニーの形式をとり、ピアノ技巧、調性、和声、リズム、叙情性など多岐に渡り鮮やかで、ラフマニノフの創作の中でもベストの内に入る。ロシアの有名な画家であるイリヤ・レーピンは、同作品を聴いた際、その「ロシア的な民族性、オリジナリティーに富むメロディー」に注目した。また、芸術評論家のウラジーミル・スターソフは「非凡で斬新な鐘の音のような表現」と評し、作家のマキシム・ゴーリキーは「彼は何とよく沈黙に耳を傾けていることだろう」と感嘆した。《10の前奏曲》のうち第5曲は特に有名で、作曲家・ピアニストのプロコフィエフがアメリカ公演の際に取り上げたことでも知られている。

トラック4の《ピアノソナタ第1番》Op.28は、ラフマニノフが《交響曲第2番》Op.27(1908)の作曲に取り組む為、モスクワの喧騒を逃れて移り住んだドレスデン滞在中の1908年に書かれた。そもそもの構想は、ゲーテの『ファウスト』に基づき、第1楽章をファウスト、第2楽章をグレートヒェン、第3楽章をメフィストフェレスの肖像とする標題的なソナタであった。3人の登場人物を各楽章に反映させるという発想は、フランツ・リストの《ファウスト交響曲》に倣ったものであるが、作曲開始まもなく放棄された。それでもなお、その題材は本アルバムで取り上げる第3楽章で明確に表れている。極めて稀にしか演奏されず、録音も少なく、注目度が低いのが現状であるが、個人的には同曲が本アルバムの中でも最も優れた名曲であると考えている。今後、より評価し、演奏していかれるべき作品であろう。ドレスデンに滞在する中で、リヒャルト・シュトラウスやリヒャルト・ワーグナーらの優れたオペラや交響曲に触れ、自身の音楽観をさらに充実させたラフマニノフ。そのような彼の、まさにドイツ文学作品を題材とする同曲の壮絶なドラマティズムをご堪能あれ!

トラック5の《ピアノ協奏曲第3番》Op.30は、ラフマニノフがドレスデン滞在末期の1909年に、はじめてのアメリカ公演用に書いた協奏曲である。《ピアノ協奏曲第2番》と並ぶ人気を誇り、ピアノ協奏曲史上、演奏技術の上で最も困難な作品に当たる。第1楽章の第1主題に関しては、ロシア聖歌や民謡の借用が指摘されることもあるが、ラフマニノフ自身はこれを否定し、「心に浮かんだ旋律を書いただけ」としている。まるで歌曲を歌うかのような旋律豊かな点では《ピアノ協奏曲第2番》に同じだが、前述のように技術的に大変高度な技巧が要されるが故、一層重厚で密度の濃い内容となっている。また、構成面においてもさらに洗練されているといえよう。聴きどころは、第1楽章の展開部から再現部への移行上にある長大なカデンツァ。ロシア正教会の鐘を思わせる壮大な和音の響きで聴く者を圧倒させる。同作品は、1996年に公開された映画『シャイン』で使用され、それ以後一躍有名になり、演奏会やコンクールで弾かれる頻度も格段に増している。

トラック6の《13の前奏曲集》Op.32は、1910年に作曲された。《10の前奏曲》がロシアの自然を歌い、明るい鐘の音を伴った曲が多いのに対し、ここではロマンティックな旋律が抑制気味になり、和声進行が斬新な雰囲気を帯び、ピアノ語法や構成の面でより進化している。同曲によって完成された24の長短調による前奏曲集は、ラフマニノフの書法や楽想の変化を反映させたものであるため、ラフマニノフのピアノ書法の集大成といえる。《13の前奏曲》の中では、第5曲、第10曲、第12曲が傑作といえ、特に第10曲はアーノルド・ベックリンの『帰還』という絵画にインスパイアされたものである。本アルバムで取り上げる第12曲に関しては、後に書かれる《音の絵》作品33の第2曲との類似が指摘されている。

【中期後半:1911-1916】

トラック7の練習曲集《音の絵》Op.33は、標題性とピアノ技巧とが絶妙に融合した作品で、1911年に書かれた。ラフマニノフが晩年語っているように、第7曲はロシアの定期市を表している等、非常に描写的であるが、実際には無標題で、演奏者や聴衆の自由な発想や解釈に委ねられる。

トラック8の《14の歌曲》Op.34は、1912年に作曲された。このうち本アルバムで取り上げる第14番〈ヴォカリーズ〉は、ラフマニノフの創作の中でも最も有名な内の一つであろう。人の声こそが神の授けた至上の楽器であるというロシア独自の発想と、この時代に象徴派サークルが目指した「言葉を意味から解放する」という試みが見事に合致した内容となっている。ヴォカリーズとは、歌詞を持たずに母音だけで歌われる楽曲及び歌唱法の総称である。同曲は旋律が非常に美しいことから、歌曲に限らずピアノやチェロ、ヴァイオリン、オーケストラなど数々の器楽用にも編曲されている。
見逃せない重要事項は、まさに1912年が、ラフマニノフにとって転換期だったという点である。この時期、彼は象徴派詩人のマリエッタ・シャギニャンと交流を深め、以前より敬遠していた象徴主義に次第に関心を寄せていった。シャギニャンと会い、文芸論を交わすうちに、ラフマニノフは新たな歌曲の創作を決意し、歌詞のテクストについてシャギニャンに助言を求めた。シャギニャンは、アレクサンドル・プーシキンなどのロマン派から、コンスタンチン・バリモントなどの象徴派まで、様々なロシアの詩人のテクストをノートに記しては、それをラフマニノフに読み聞かせた。朗読の際、シャギニャンは、ロシア語の詩が本来持つべき美しいイントネーションを忠実に再現し、且つそのイントネーションを、詩のテクストの中に上昇し下降するリズミカルなラインとして書き入れた。また、メロディーの線を強調したり淡くしたりするなど、ロシア語そのものの響きの美しさをも可視化させていたという。このような詩人と音楽家のやりとりの中で、《14の歌曲》そして《6つの歌曲》Op.38(1916)が創作された。なお、ラフマニノフは《14の歌曲》のうち第1番〈ミューズ〉をシャギニャンに献呈した。

トラック9の《晩祷》(正確には《徹夜祷》)Op.37は、第一次世界大戦という動乱最中の1915年に書かれた。ロシア正教会の奉神礼である晩祷の一種で、チャイコフスキーをはじめとする多くの作曲家達が手がけた定番の典礼音楽である。15曲から成る同作品は、ロシア聖歌・ギリシャ聖歌・キエフ聖歌の旋律に加え、ラフマニノフ独自の旋律による「疑似聖歌」も6曲あり、ロシア正教会の伝統と形式を基に、実質的にはロシア民謡のポドゴローソク(ヘテロフォニー的に多声化したもの)を反映させた、豊かで自由な多声合唱曲となっている。ラフマニノフがモスクワ音楽院時代にロシア正教会音楽の講義を受けた、スモレンスキーの想い出に捧げられている。本アルバムで取り上げる第5曲〈主宰や今爾の言《ことば》にしたがい〉は、聖書に基づく朗唱カンティクムであり、キエフ聖歌の旋律で書かれている。どこかロシア民謡の子守歌を思わせる、穏やかで夢想的な曲である。ラフマニノフは生前、自分の葬儀に第5曲が演奏されることを望んでいた。

トラック10の練習曲集《音の絵》Op.39は、ラフマニノフが1915年に、友人スクリャービンや恩師タネーエフなど、相次いで身近な存在の死を経験した後の1916年に作曲された。この時期、スクリャービンの追悼記念演奏会に出演していたこともあり、スクリャービンの斬新な和声に強く影響されている。Op.33と同様、各曲に標題はないが、晩年のラフマニノフがレスピーギに宛てて書いた内容に依れば、第2曲は〈海とカモメ〉、第6曲は〈オオカミと赤ずきんちゃん〉、第7曲は〈葬送行進曲〉、第9曲は〈定期市の光景〉を描いているという。このように、きわめて絵画性の高い同曲は、ピアノ音楽における最大限の名人芸が凝縮されているだけでなく、第一次大戦など、当時の不穏な社会情勢をも反映しており、時代性が表れている。最も有名なのは第6曲だが、本アルバムではあえて第8曲を取り上げた。叙情豊かな練習曲で、印象派の絵画のような、美しい色彩の移ろいや透明感を感じさせる。息の長いレガートの旋律と、軽快なスタッカートの対照が際立つ。最後は小さな鈴のような音とともに、沈黙の彼方へ消えていく。

【後期:1917-1943年】

トラック11、12,13の《コレルリの主題による変奏曲》Op.42は、1931年の作品。スペイン/ポルトガルの民族舞曲《フォリア》に基づく主題によって書かれた、ラフマニノフ最後のピアノ独奏曲である。多種多様に展開し、最後は悲劇的なクライマックスへと至る。深遠な音の世界観が見事に描き出されている。主題の変奏方法、緩急のまとまりと組み合わせ方、主題変奏・間奏・コーダという三部構成、さらにピアノ書法の多様性など、諸々の観点に置いて、ラフマニノフのピアノ独奏曲の中でも頂点を成す傑作である。本アルバムでは最も高揚する第18-20変奏を抜粋した。

《コレルリの主題による変奏曲》はニ短調であるが、ラフマニノフの作品においてニ短調という調性は、音楽に「新しい言葉」をもたらす画期的な作品に用いられることが多く、ラフマニノフの「音楽的署名」をも示すとされトラック14の《パガニーニの主題による狂詩曲》Op.43は、1934年、ラフマニノフがスイスの別荘「セナール」に滞在中に書いた作品。短い序奏と24の変奏から構成される。1934年11月7日のボルティモアでの初演以降、現在に至るまで高い人気を誇り、ラフマニノフの代表作の一つとされる。
同作品の主題は、パガニーニのヴァイオリンのための《24の奇想曲》Op.1の第24番の主題に基づき、実はリストやブラームスなどもこれを使用している。《コレルリの主題による変奏曲》と同じく、細かな音型を付け加えるのパガニーニの主題による狂詩曲》は、ストラヴィンスキーの《火の鳥》などを手掛けた有名な振付師フォーキンによってバレエ化された(1939年ロンドンで上演)。ラフマニノフのフォーキンへの書簡によると、「悪魔に魂を売って超絶技巧を手に入れた」というパガニーニの伝説に触発され、悪魔の象徴として《怒りの日》の主題を使用したとのことである。

本アルバムで取り上げる第18変奏は、極めて甘美な叙情性を湛えており、同作品の中では最も人気の高い変奏である。ラフマニノフが、しばしば叙情的旋律を書くため用いた変ニ長調に基づき、主題の反行形によって構成されているが、一方で次のような別の説もある。ニコライ・メトネルの《おとぎ話ソナタ》Op.25-1(1910-1912)の第2楽章の主題によるものではないかということだ。ラフマニノフがメトネルの《おとぎ話ソナタ》を好んで演奏していたため、同作品からの引用の可能性が大きいとする見解がなされている。

参考文献

高橋健一郎「ラフマニノフのピアノ曲・協奏曲」(『ユリイカ』2008年5月号、青土社)
一柳富美子「ラフマニノフのオペラ・声楽作品」(『ユリイカ』2008年5月号、青土社)
一柳富美子『ラフマニノフ明らかになる素顔』2012年、東洋書店ユーラシアブックレット